「あなたの心に…」

最終章




Act.57・最終回 マナが消えた夜

 

 

「えええっ、そ、そ、そんなっ!」

 うん、当然の反応だわ。
 私の宣言にシンジは目を剥いた。

「不満なの?馬鹿シンジっ」

「ふ、不満とかそんなのじゃなくて…」
 
 ふんっ、往生際が悪いわよ、シンジ。
 さっさと承知しちゃいなさいよ。
 誰が見ていようがかまわないじゃない。
 キスはキスよ。





 月曜日の朝。
 学校はお休みなの。
 今週末の土曜日が通常の月曜日の授業になるわけ。
 修学旅行から帰ってきたのが日曜日だったからね。
 さすがの私も今日だけはいつもの朝駆けはできなかった。
 起きたのが8時だったのよ。
 リビングに出て行くとパパはもう出勤してた。
 ママはというと、いきなりの攻撃。
 私の顔を見てにたぁと笑うのよっ。

「ごめんね、アスカ。お赤飯で前祝しようと思ったんだけどお豆の準備してなかったから」

「ママ…?」

「その代わり、今晩は鯛の尾頭付きってことで。あ、でも決行は何時?夜?もしかしてご飯食べた後?」

「マナね」

 情報源はそれしかない。
 レイはベラベラ喋るキャラじゃないもんね。
 
「パパは帰りにお祝いのケーキ買ってくるって言ってたわよ」

「シンジの分も?」

「あら、どうかしら?」

「シンジのも買ってこなかったら締め出しだって連絡しといて」

 私は前向きなのだ。
 意図的にシンジのは買ってこないような気がするもんね、パパは。
 やっぱり父親と母親とは違うのかな?
 ママの方はシンジを大歓迎してるような感じなのにね。
 
「偉そうに何様のつもり?」

 げげっ、やばい。
 思い切り低くて一本調子のその声に、こっそりママを見ると膨れっ面。
 どうしてこの夫婦はいつまでも…って、実は私は憧れてる。
 傍から見てたら馬鹿みたいなカップルだろうけど、私もああなりたい。
 もちろん、その相手はシンジに決まってる。
 アイツ以外は却下。
 パパみたいに幸せにしてあげるからね。
 可哀相だけど、パパは今日から世界で二番目に幸福な男になるわけよ。
 一番は当然、この私に愛されるシンジになるの。
 はんっ、自意識過剰とか何とか好きに言えばいいわ。
 周りの目なんか関係ないもん。
 あ、ってことは。

「ねぇ、ママ」

「何よ」

「もう、いつまで怒ってんのよ。それよりも、昨日の夜はマナそっちに行ってたの?」

「ええ、親子三人川の字になって仲良くおやすみしたわよ」

 私は膨れた。
 待ってたのに…。

「で、そのマナは?」

「散歩してくるって」

「散歩?」

 あ…、そうか。
 ママは優しく微笑んだ。

「そうよ、見納めに街を見てまわってるの。思い出の街をね」

 そっか。
 だけど、やっぱり少し寂しい。
 最後の夜は私と一緒にいて欲しかったよ、マナ。

「アスカ、そんな顔しないの。
 マナも辛いのよ、あなたとサヨナラするのがね」

 私は口をへの字に結んだ。
 あと何時間?
 マナ?今、どこにいるの?
 見納めが終わったらちゃんと帰ってきてよね。
 話したいことがあるんだから。

 で、マナとお話しする前に私にはしなければならないことがある。
 恥を忍んで、高飛車に出て、シンジを屈服させないといけない。
 いつまでもマナと一緒にいて楽しくやりたいけど、確かにマナの言うとおりよ。
 想像したくもないけど、私がおばあちゃんになっても、そして死んでしまっても、
 マナが今の12歳のままで幽霊をしているだなんて可哀相よね。
 しかも永久に成仏できないのよ。
 悪霊に変じてしまうっていうのもわかるような気がする。
 成仏することもできずに生きている人間が笑ったり喜んだり楽しそうにしているのを見ていたら、
 最初はいい幽霊だったとしても心に隙間風が吹いてくるわよね。
 愚痴をこぼすような友達がいるわけがないし。
 そんな理屈はよくわかってるの。
 でも、理屈じゃないのよね。
 マナのことが好き。
 ま、シンジの恋敵だったなら生涯の仇敵ってヤツになってたかもしれないけど。
 あんな情けないヤツだったシンジに惚れてしまったのはマナのおかげだと思う。
 深い事情を知らなかったらアイツの哀しみを理解できてなかったもんね。
 アリガト、マナ。ホントにアリガト。
 でも、やっぱり生きているマナと馬鹿騒ぎしたかった。
 あの調子っ外れのレイや生真面目なヒカリとみんなで楽しい学生生活を送りたかったなぁ。
 だから、簡単にはマナにサヨナラなんて言えやしない。
 だけど、言わなきゃね。
 マナがちゃんと成仏できるように。
 浮遊霊や自縛霊なんかになってしまわないように。

 って、ことでシンジの部屋に突入したの。
 レイに渡された合鍵があるしね。
 驚かしてやろうと思って、私は鍵を差し込んだわ。
 ぐふふ、開いた。
 そろりと扉を開けると掃除機の音に洗濯機の音。
 ああ、感心ね。
 流石はシンジ。ちゃんと家事をしてるじゃない。
 私は靴を脱いでそろりそろりと廊下を進む。

「いらっしゃい、アスカ」

「ぐはっ!」

 驚いた。
 前方の掃除機の音に気を取られて洗面所からぬっと出てきたコイツに気づかなかったのよ。

「遅かったわね、もう何もすることはないわ。全部私がして差し上げたから」

 にやりと邪悪な微笑を浮かべる小姑レイ。

「アンタ、あの合鍵を使ったのね」

「いいえ、人聞きの悪い。ちゃんとロックを開けていただいて部屋に入りましたわ」

 澄ました顔の陰に大嘘が見える。
 どうせ鍵を開けてもチェーンロックが掛かってたんで仕方無しにシンジを呼んだんでしょうが。
 まったく喰えないヤツ。
 私は予感した。
 今後の生涯はやはりこのレイとの対決の毎日になるのではないかと。
 最終的に勝てないことがレイにはわかっているだけにホントに不毛な戦いになりそうだ。

「あ、おはよう、アスカ」

「おはよっ、シンジ!」

 私はレイを押しのけて最上級の笑顔と挨拶をシンジに送ったわ。
 うふふ、シンジったら律儀に掃除機の音を止めて挨拶してくれるの。
 ああ、嬉しい。

「そうそう、朝食の洗い物がまだだった」

 背後の惚けた声に私は即座に反応したわ。

「OK。そいつは私が片付ける」

「えっ、いいよ、アスカは何もしなくても」

「うっさいわね、レイにはさせて私にはさせないってことぉ?私、そんなのヤだかんね」

「もう…」

 勘弁してよって感じのシンジの苦笑した顔。
 昔ならいらいらっとするところだけど、今の私にはこんな情けない表情でも胸がときめく。
 ああ、なんとでも仰い。
 恋する乙女には大口開けた欠伸でさえ心ときめくのよ。
 たぶん。
 でも、シンジには絶対にこう言うと思う。
 馬鹿口開けて欠伸なんかするんじゃないわよ、まったく!……とかね。
 心の中では嬉しいに決まってる。
 だってさ、あんなに外面のいいシンジが無警戒に欠伸をするってことは、
 それだけ私のことを信用してるってことだもんね。
 まだ今はそういう姿を見せてはくれないでしょうけどね。
 どうしてかですって?
 アンタ馬鹿ぁ?
 この天才美少女を彼女にできたんだから、当分は舞い上がって緊張するに決まってんでしょうが。

「し、し、シンジ?」

 声が裏返ってしまった。
 片付けとかが全部終って、みんなでコーヒータイムのその時のことよ。
 ちらりとレイを見ると、早く言いなさいよ、このオタンコナスってその赤い瞳に文字が浮かんで見えた。
 私、レイとなんかアイコンタクトできなくていいよ。
 シンジとだったらテレパシーでもなんでもOKだけどね。
 ま、今日のアイイベントを後押しするためにレイは来てる…はず。
 もしかすると、いい口実ができたとほくそ笑みながらやってきたのかもしれないけど。
 ええい、言えばいいんでしょ、言えば。
 で、思い切って口にしたのが今の呼びかけ。
 目だけで笑うんじゃないわよ、レイのヤツ。
 絶対にコイツ、一人だったら笑い転げてるわよ。
 ホントに外面が分厚いんだから。

「ん?どうしたの、アスカ」

「あ、あ、あの、き、き、キスっ!」

 考え抜いていた攻略トークは頭の中からすべて消去されていたわ。
 やっとの思いで口にしたのは“キス”という単語だけ。
 とほほ。
 
「えっ、き、キス?」

 うんうんと大きく頷く私。

「キス!私!シンジ!」

 これじゃ、まるでカタコトの外国人じゃない。
 三ヶ国語ペラペラの私が情けないったらありゃしない。

「ぼ、僕とアスカが、き、キスするの?」

 日頃の鈍感さはどこに行ってしまったんだろうか?
 頷きたいけど恥ずかしい。

「そうよ、お兄様とアスカがキスをするの。私の見てる前で」

 あ…、言われてしまった。
 物凄く不愉快。
 その不愉快さが私の羞恥心を奪い去ってしまったみたい。
 私は無表情のレイを一瞥すると、シンジに向き直ったわ。
 何よ、けろっとした顔しちゃってさ。
 ふん、冗談だと思ってんのね。
 ゆっくりと腰に手をやり、すっと足を肩幅の広さに開く。
 すぅぅ〜と息を吸い込む。

「この馬鹿シンジ。私とアンタの歴史に残るファーストキスの瞬間を誰かが見届けないとどうすんのよっ!」

「はい?」

 目茶苦茶な論理だ。
 自分でもそう思う。
 シンジが呆気に取られるのも無理ないわ。

「そ、そんな…。それは僕とアスカの二人だけの思い出にしておけばいいじゃないか」

 おおおおお。
 シンジ、大好き!
 何て素晴らしいことを言ってくれるのかしら。
 そ、そうよね、二人だけの甘い思い出。
 素晴らしいじゃない。

「痛っ!」

「あ、ごめんなさい。わざとじゃないの」

 この、大嘘つき!
 ま、おかげで桃色の幻惑世界から無事に帰ることができたわ。
 あとでゆっくりお礼言ってあげるからね、レイ。
 おお、痛い。思い切り踏みつけてくれたじゃない。
 でも、危なかったわ。
 危うくマナのことを忘れちゃうところだった。
 ホントに私ってダメなヤツ。

「この馬鹿シンジっ!」

 ごめんね、シンジ。
 とってもいいことを言ってくれたのに馬鹿扱いして。
 一生かけてその埋め合わせしてあげるから、それで許して。

「え…」

「レイに歴史的証人になってもらうのっ。
 それともうひとつ、この大イベントには大きな意味があるのっ」

「い、意味?」

 ごめんね、シンジ。
 私のこと、おかしな女なんて思わないでね。
 絶対に嫌いになんかならないでね、お願いだから。

「そう、大きな意味よ。レイにけじめを付けさせるのっ」

 私は説明した。
 で、シンジはすべてを聞いた後叫んだの。

「えええっ、そ、そ、そんなっ!」

 うん、当然の反応だわ。
 私の宣言にシンジは目を剥いた。

「不満なの?馬鹿シンジっ」

「ふ、不満とかそんなのじゃなくて…」
 
 シンジはレイを睨みつけたわ。
 へぇ、あんな表情もするんだ。
 って、ちょっと嬉しかったりもする。
 ファーストキスをレイの前ですることに大不満みたいなんだもん。
 
 だけど、ここは私は涙を呑んでシンジを屈服させた。
 どう言い聞かせたかですって?
 逆らったら二度とキスさせたげないわよって言っただけよ。
 当然、完璧な大嘘だけどね。
 シンジが物凄く慌ててくれたのには顔がにやけてしまわないように抑えるのに必死だったわ。



 ファーストキス決行時間。
 本日、午後9時。
 場所、私の部屋。


 
  
 決行時間まであと6時間。
 やっとマナが帰ってきた。

「ごめんね、アスカ」

「ううん、いいよ」

 私は何となくベッドに転がっていたの。
 ふと目を開けると、お腹の上辺りにマナが座っていた。

「マナ覚えてる?」

「初めて会ったときのこと?」

「あたり。アンタ、私を起こすのにずいぶんと幽霊らしいことしてくれたじゃない?」

「そうだっけ?」

 惚けるマナに私はくすりと笑ってしまった。
 こういう子だ、マナは。

「でもさ、アスカって度胸が据わってたよね。
 私を見ても大騒ぎしたり泣き出したりしなかったんだもん」

「それはアンタが幽霊っぽくなかったからよ。
 あんなに明るく出てこられちゃあね」

「そう?歌ってなかったし、踊ってもなかったんだけどなぁ」

 これを素で言うところがマナなのよね。
 鈴原あたりと漫才コンビでも組めそうよ。
 いいボケ役になれそうだけど、鈴原とペアじゃヒカリがご機嫌斜めになりそうね。

「ね、アスカ。私、なかなかいい目をしてたでしょ?」

「シンジとのこと?」

「そうそう。私が言った通りになったでしょ。
 アスカは絶対にシンジにぴったりの彼女になるって直感したのよ」

 くりくりと瞳を輝かせる。
 アンタ…、ホントは自分が彼女になりたかったくせに。
 無理しちゃって…。

「あのさ、マナ」

「ん?」

 私はベッドに起き直った。
 マナと向かい合うような感じ。

「お願いがあるの。OKしてくれる?」

 マナはきょとんとしてる。
 私の真剣な眼差しにびっくりしたのかも。

「う、うん。何だかわからないけど」

「よしっ」

「えっ、なんなの、それで?」

「アンタね、私の娘になりなさいよ。約束して」

 マナの口がパクパクしてる。
 
「生まれ変わりってあるんでしょ。アンタ、何とかして私とシンジの間にできる赤ちゃんになるの。
 いい?絶対に生まれ変わるのよ。アンタ、おっちょこちょいだから間違えるんじゃないわよ、ねっ」

 一気に喋った。
 もし実体があるなら、マナの肩を掴んで言い聞かせたいところ。
 
「私で…いいの?」

「うんっ。マナって名前にしてあげるからさ、そうしたら一緒にいられるじゃない」

「アスカ…」

「ねっ?そうしてよ。お願い、マナ」

「なれるかなぁ…?」

「大丈夫!努力と根性でなんとかしなさい!」

 顔を突き刺すくらいの勢いで指差してやった。
 まあマナに実体があったら、目を突いてたはず。
 だけど、マナはにっこり微笑んでいるだけ。

「わかった。やってみるね」

「うまくやんなさいよ」

 商談成立。
 仏教には輪廻って考えがあるそうだから、きっとマナは私たちの子供として生まれ変わってくれるはず。
 私の子供なんだから美人になることは保障してあげるわ。
 ずいぶんといい取引だとは思うけどね、マナにとっては。
 で、私はマナの秘密を聞き出した。
 お尻に黒子が三つ並んでるんだって。
 私は強引にその現物を披露させたわ。
 幽霊のお尻をひん剥くなんてこの世界で私くらいかもね。
 だってさ、確かにマナの生まれ変わりだって決め手が欲しいもの。
 ま、そんなのなくたって私は信じるけどね。
 この世の中に不可能なんてことはない!
 シンジと彼氏彼女になれた私にはバラ色の未来しか見えないの。

 そう思わないと、悲しくてたまらないもん。
 マナにサヨナラを言わないといけないんだから。



 最後の晩餐。
 それにマナも舌鼓を打った。
 幽霊なのにどうしてかって?
 レイに乗り移ったの。
 そして、ママの手料理を楽しんだわ。
 でも、不思議よねぇ。
 レイはお肉が嫌いなのに、マナが乗り移ったらパクパク。
 まあアレルギーとかじゃないって言ってたから、ホントは食べられるのよね。
 だけどさ、この晩御飯の時のレイを見ていると不思議な気分になった。
 だっていつもの物静かなレイは何処へやら、食べる、喋る、笑う…。
 忙しいったらありゃしない。
 声質が似ているだけにホントにおかしかった。
 ビデオで撮っておいて、後でレイに見せたらどんな顔するだろ?
 
 マナがレイの身体から出たのは食後のコーヒーとケーキが終ってから。
 あ、シンジの分もパパは買ってきてくれてたけど、やっぱりこの場には呼べやしない。
 仕方がないからマナにもう一個食べさせてあげることにしたの。
 
「嬉しいなぁ。最後に食べるのがここのチョコレートケーキだなんて本当に幸せ!」

 これが嫌味で言っているのじゃないのがマナのいいところね。
 ああもう、ほっぺにチョコつけちゃってさ。
 レイが見たら卒倒しそうよ、この行儀の悪さは。
 そのチョコを拭いてあげようとしたら、先にママの手が伸びたの。
 あらら、幸せそうな顔しちゃって。
 何だかシンジとラブラブ…いや、兄妹なんだからそっちの意味のラブラブじゃなくてさ…。
 あ、だから今と同じなのか。
 家族の愛に包まれて幸せってことなのよね。
 最初からレイは覚悟してたってことなのか。
 ただ、どうしても踏ん切りがつかなくて…。
 その上、私がどうしようもないお馬鹿でレイとシンジをくっつけようと画策した上に、
 突然自分の気持ちに気が付いて宣戦布告なんかしちゃったから、
 余計にレイが意固地になってしまったんだ。
 なんだ、ずべては私がへっぽこだったってこと?
 ぐふぅ。

「あのね、ママとパパにお願いがあるの」

「なんや、言うてみ」

「ぎゅって抱きしめて。それを最後の思い出にしたいの」

「お、おお、ええで」

 わっ、パパったら今感極まったわね。
 思い切り涙を堪えてるじゃない。
 泣き虫なんだから、パパは。

「いらっしゃい、マナ」

 それに比べてママのどっしりとしてること。
 パパと横に立って微笑みながらマナを招いてる。
 マナは二人の間に入って、そしてぐっと抱きしめられた。
 私はその光景をずっと見ていたわ。
 あれ?涙…。
 ふん、仕方ないのよ。きっとパパに似たんだわ。

「わ、鬼の目に涙」

「うっさいわね、マナ」

 反射的に返答して、あれ?と振り返る。
 私の背後でぷかぷか浮いてるのはマナ。

「ち、ちょっと、どうしてアンタがここにいんのよ」

「うん、さっき抜け出したの」

「じゃ、あれは?」

 指差した先にはさっきと変わらない親子3人の姿。

「ん?レイちゃんだよ。ちょっとは気を利かせてあげたの。
 あの子だって、ほら親子の愛っていうのに餓えてるはずだから」

「へぇ、マナって大人じゃない」

「へっへっへぇ。そう?」

 得意になって笑う姿はやっぱりまだ子供だ。
 でも、マナ。アンタ、グッドジョブ。
 だって、ほら。レイの手がお尻のところでVサインしてる。
 ま、今日は二人にパパとママを貸してあげましょうか。
 何しろ世界一の両親なんだもん。
 私のパパとママはっ。



 その素晴らしい両親はデートに外出した。
 シンジが来る前に留守にしておこうという親心。
 だけど、二人は帰ってこないつもりみたいよ。
 ホテルのラウンジ、予約してたし、今晩はお泊りみたい。
 パパは直接出勤するみたいだから、明日の朝は私ひとりか。
 接待費とかで処理なんかするんじゃないわよ、パパ。

 二人が出て行ったのが、午後8時30分。
 ふぅ、やっぱり緊張するわね。
 なんてったってファーストキスなんだもん。

「アスカ、顔色悪いわよ」

「うっさいわね、放っておいてよ」

「あら、じゃ緊張のあまり水分が失われてがさがさの唇でキスされるのね。
 可哀相なお兄様」

 私は洗面所にすっ飛んで行ったわ。
 がらがらがらっとうがいをして。
 念入りに歯磨きして。
 ちょっとだけリップも塗っちゃえ。
 鏡の中の私。
 よしっ、大丈夫!
 リビングに戻った私を迎えたのはくすくす笑うレイと笑い転げてるマナ。

「何よ、アンタたち。その態度は」

「緊張をほぐしてあげてるのよ」

「そいつはどうも。お優しいことで」

「アスカ、5分前だよ」

 壁の時計は8時55分。
 ああ、もうすぐだ。

「じゃ、私、行くね」

 マナが笑った。にっこりと。
 ぐっと来そうになるのを一生懸命に堪えたわ。

「う、うまく成仏すんのよ」

「任せといて。それに何だかさ、さっきからふわふわしてるの」

「ホント?」

「うん、思い残すことがほとんどなくなってるって感じ」

「そっか。そうなんだ…」

「マナさん、早く」

「うん、わかった…。あ、そうだ、アスカ」

 レイの方に向いかけたマナが振り返った。

「ありがとう、アスカ。あなたが引っ越してきて本当に良かった」

 言えない。
 言葉が出ない。
 私は唇をへの字に結んで、大きく二回頷いた。

「じゃあね、さよなら、アスカ」

「マナ!」

 少し擦れた私の声にマナは顔を上げる。

「馬鹿マナ。アンタ、言葉を間違えてるわよ」

「え…」

「さよならじゃなくて、いってきますでしょ。約束破るつもり?」

 マナの顔があっと息を呑んだみたいになった。
 そして、ゆっくりと微笑む。

「うん、そうだね。いってきます、だよね」

「そうよ、アンタが帰ってきたときにはおかえりって言ってあげるんだからさ」

「うん。じゃ…アスカ。いってきますっ」

「いってらっしゃい」

 マナの姿はその瞬間、すっと消えた。
 あっと思ったときには、レイがうんと頷いていた。
 憑依したんだ。
 その後、レイは…ううん、マナは一言も喋らなかったの。
 シンジがやってきたときも、何も口を開かずにただベッドサイドに腰掛けているだけ。
 一見するとレイその人って感じだけど、今その身体に宿っているのはマナの心。
 私はことさらに元気に振舞おうとした。

「さあ、シンジ。目を瞑りなさいよ」

「えっ、僕が?」

「あったり前じゃない。アンタは私の言う通りにすればいいの」

「そ、そうなんだ」

 あ…、シンジが少し落胆してる。
 ま、まずいわ。
 きっと、ファーストキスは自分がリードするんだとかで気負ってやってきたのに違いないわよ。
 え、えっと、フォローしなきゃ。

「た、た、ただし、今日だけだからね。あ、明日のセカンドキスからはアンタがしっかりリードするのよっ」

「あ、う、うんっ」

 シンジって単純。
 あ、私今セカンドキスを明日って…。
 まあ、いいわ。
 大事の前の小事よ。
 それにシンジが喜んでるんだからいいじゃない。

 私はちらりとマナを見た。
 レイの赤い瞳の奥でアンタは何を見てるの?
 黙りこんでじっとこっちを見ているマナに私は何も言えなかった。
 頷くことすらできない。
 ホントはサヨナラしたくないんだよ。
 アンタが私の将来の赤ちゃんになってくれるって保障は何処にもないんだから…。
 マナ…。
 ごめんっ。

「シンジ、目を瞑ってっ!」

「うんっ」

 きゅっと目を瞑るシンジ。
 行くわよ、アスカ。

 私はシンジに顔を近づけた。
 その時頭に浮かんできたのは、シンジとのことではなく、マナとの思い出。
 ごめんなさい、シンジ。
 
 初めて顔を合わせた幽霊娘。
 私の部屋に前に住んでたというマナ。
 お隣のちょっと情けないヤツの幼馴染のマナ。
 そいつの両親と自分の父親と4人一緒に事故で死んじゃったマナ。
 アイツの恋人になれと強要したマナ。
 いつの間にか仲良くなっちゃったわよね。
 バレンタインデーのときはがんばってくれたっけ。
 ホワイトデーのときはぬいぐるみに乗り移ってシンジにずっと抱っこしてもらったんだよね。
 自分のお墓参りをするのってどんな気分だった?
 ねぇ、いいの?
 ホントに私でいいの?
 ホントは私なんかにシンジを渡したくないんじゃないの?
 でも、私、もうダメ。
 誰にだってシンジを渡したりはしない。
 アリガト、マナ。
 シンジをあの世に連れて行ったりしないでくれて。
 アリガト、マナ。
 シンジを好きになるように仕向けてくれて。
 アリガト、マナ。
 きっと、いい思い出だよ。シンジにとって。
 アンタと過ごした小学校までの記憶は。
 アリガト……。
 ちゃんと帰ってきなさいよ。

 ちゅっ。

 その瞬間、私は目を瞑ってしまった。
 たぶん反射的に。
 慌てて目を開ける。
 目の前はシンジの顔だけ。
 マナは?
 唇をつけたまま、私は顔を捻った。
 結果的にシンジの唇へとさらに力を加えることになってしまった。
 むふって鼻で息を抜くシンジ。
 苦しいの?
 やっと目の端にベッドが見えた。
 えっ……。
 そこにはレイが横たわっていたわ。
 うつ伏せになって。
 嘘っ。
 こんなに簡単に?
 私は目をくるくると動かしてわずかに見える部屋の中を探した。
 マナ……!

「いってきます…」

 あ……。

 耳元で微かにそう聞こえた。
 咄嗟にキスをやめて回りを見渡したけど、声の主はもう何処にも見えなかったの。
 馬鹿マナ…。
 いっちゃったのね。
 つぅっと涙が頬を流れる。

「アスカ…?」

 シンジの声にはっとした。
 慌ててシンジに背中を向ける。

「泣いてたの?」

 見られた。
 でも、今はどんな嘘もつけそうもない。
 私は唇を噛みしめて天井を仰いだの。

「ありがとう、アスカ。嬉し涙…だよね」

 こ、こいつったらしょってる!
 まあ、このシチュエーションならそう思われても仕方ないか。
 だけどおかげで力がすっと抜けた。
 ボケボケ鈍感大王の効果ね。
 私は大きく息を吐くと、ゆっくりと振り返った。
 
「シンジ…」

 私のシンジは照れくさそうに頭を掻いている。
 よかった。
 自信たっぷりな感じで見られたらどうしようかと思った。
 そのいつも通りの、いいえ、少し嬉しげなシンジに私も笑顔を漏らした。

「あ〜あ、泣かされちゃった。責任取ってよね」

「う、うん。是非責任取らせてよ。あの…、ずっと責任取っていい?」

「まあ、一生かけて償ってもらおうかしら」

「ありがとう」

 今度は鼻の頭をポリポリと掻いてる。
 いろんなとこが痒くなるのかしら?

「レイは?」

 唯一の観客のことを思い出したシンジが振り返る。
 さっきと同じ格好でベッドに横たわっているレイ。 
 首を傾げながら近づいたシンジがおかしそうに笑った。

「アスカ。レイったら眠ってるよ、ほら」

 私はゆっくりと歩いて行った。
 まったくシンジは単純この上ない。
 こんなタヌキ寝入りがどうしてわかんないのよ。
 私はレイの腰を人差し指で突付いてやった。
 さすがにぎくっと腰が震える。

「やめなよ、アスカ。可哀相じゃないか」

「あらら、優しいお兄様なことで」

「変な言い方するなよ」

「何よ、レイにはお兄様って言われて鼻の下伸ばしてるくせに」

「の、伸ばしてなんかないよ」

「どうだか…。私もお兄様って呼んでやろうかなぁ」

「だ、ダメだよ。馬鹿シンジでいいよ、うん」

「ば、馬鹿って、いつもそう呼んでるように聞こえるじゃない。それともアンタ、マゾ?」

「そ、そんな!僕はマゾなんかじゃないってば」

「じゃ、妹萌えの変態ね」

「目茶苦茶言うなよ」

「ふんっ、言われたくなかったらこの口に蓋でもすることね」

 ただの売り言葉だったの。
 シンジの動きを計算したわけじゃなかったのよ。
 ただ、シンジは私の言う通りに身体を動かした。

「だいたい、アンタは…んんっ…」

 口に蓋をされた。
 とても甘い蓋で。

「ごほんっ」

 真下から怒りを含んだ咳払い。
 慌てて唇を離し逆方向に向き直った私たちの間で、レイが膨れっ面をした。
 
「こんな至近距離で見せてちょうだいなんて頼んだ覚えはないわ」

 

 シンジはその後急に恥ずかしくなったのか逃げるように自分の部屋に戻っていった。
 私はレイに泊まって行ってくれるように頼んだけど、明日は学校だからとすげなく断られてしまったわ。
 この優等生がっ。

 寂しいな。
 誰もいない家。
 パパとママはデート中。
 マナはもういない。
 何だか急に家が広くなったような気がする。

「マナ?」

 宙に向って呼んでみた。
 答が返ってくるなんて期待もせずに。
 もしかしたら、成仏しそこなってふらふら戻ってくるかもとはちょびっとだけ思ったけどね。
 しんとした空気の中へ私の呼びかけは吸い込まれるように消えてしまった。
 ああ、今晩だけはひとりぼっちはヤだよぉ。
 その時、携帯電話が鳴ったの。

「きゃっ」

 タイミングよすぎ。
 ああ、びっくりした。
 通話じゃなく、メール。
 レイからだったわ。

『寂しいからと夜這いはダメ』

 あのね。
 私はくすくす笑いながら返信してやった。

『今邪魔しないで。シンジが…』

 送信後、12秒で電話がかかってきた。
 冗談だと詫びる私にレイはくどくどと文句を言う。
 それを聞きながら私は思った。
 レイとは長い付き合いになりそうだ、と。

 長電話を終えた後、私はそのまま短縮ボタンを押した。
 シンジの家の電話。
 トゥルル…。
 
『はい、碇です』

「ハロー、シンジ。元気にしてた?」

『ええっ、そ、そりゃあ元気だよ。ついさっき別れたばかり…』

「ああああっ!」

 私は吼えてやった。

『うわっ!な、な、なに?』

「そんな不吉な言葉使わないでくれる?今度そんなこと言ったら折檻だからね」

『別にそんな意味で言ったんじゃないのに…』

「ね、シンジ、今どこにいんの?」

 私は壁を見つめた。
 シンジの部屋が壁の向こうにある。

『自分の部屋だけど?』

「私も自分の部屋」

『何だか変だよね。ほんの何メートルも離れてないのに電話使ってるなんて』

「仕方ないじゃない。レイに釘刺されてるもん」

『あは、それはそうだよね。僕にも電話かかってきたよ。アスカと一緒じゃないでしょうねって』

「あのブラコン娘はっ」

『そうだ、アスカ。ベランダに出ておいでよ』

「え?」

『昔ベランダ越しによく喋ったんだ。ね、来てよ』

 昔…。
 マナとの思い出、か。
 胸の奥が痛いような、温かいような。
 私は電話を耳に当てながら部屋の扉を開けた。
 そして、カーテンがはためくベランダに向う。

『アスカ?』

「シンジ?出たわよ、ベランダ」

 私はぐっと手摺から首を覗かせた。
 同じようにしてシンジも顔を見せていた。
 思わずにこりと笑ってしまう。
 そして二人同時に電話を切った。

「アスカ、大声出しちゃダメだよ」

 開口一番これだ。
 当然むかついた私は言い返そうとして、ふと気づいたの。

「それって経験談?マナ…って子との」

「うん。アイツ、馬鹿声出すから近所から怒られるんだ」

「小学生の時?」

「うん、低学年の時だったなぁ。それで糸電話ならいいだろうってベランダ越しにつないだんだけど」

「マナのことだからそれでも大声出したとか?」

 シンジは口を閉ざした。
 あわわ、私マナとは顔合わしたことないんだっけ。
 やばいこと言っちゃった。

「シンジ…?」

 恐る恐る声をかけると、シンジはくすくすと笑い出したの。

「そうなんだ。よくわかったね、本当にアイツったら子供でさ」

「何言ってんのよ、子供だったんじゃない。アンタだって」

 手摺に手を置いて、私は夜空を見ていた。
 ちらりとお隣を見たらシンジも同じ姿勢。
 互いの顔を見ずに声だけでやりとり。
 これじゃ電話と同じだなんて思うわけない。
 距離感が全然違う。
 現実の距離じゃなくて、心の距離感がね。
 
「はは、そうだよね。でも、その時はそう思ってたんだよ。マナは子供だよなって」

「馬鹿シンジの癖に」

「あ、それも不思議だよね。その部屋に住む女の子はどうして馬鹿シンジって呼ぶのかなぁ?」

 本当のことは言えない。
 マナがそう呼んでたのを聞いてるうちに感染っただなんてね。

「さあね、もしかしたら身近にいる人間だけが気づくんじゃないの、アンタが馬鹿だってさ」

「えぇ?」

「そのうちレイも言い出すかもよ。馬鹿お兄様ってね。ふふ」

「もう言われたよ、さっき電話で。結婚するまではキスまでしか許しませんなんて言うから、つい反抗したんだ。
 そうしたら、不潔な馬鹿お兄様ってずばっと言われちゃった」

「ははは…」

 私の笑い声は途中で止まった。
 キス以上のことをしたいってこと?
 そういう意味よね、こ、このお調子者が。

「あ、あの、ご、ごめん、アスカ。ぐ、具体的にどうこうってことじゃなくて」

「このスケベっ」

「ごめんなさい」

 ま、いいわ。
 いつかそういう日も来るでしょうよ。
 だって、いつかある日、マナを産まないといけないんだから…。
 って、私はっ!
 よかった、顔が見えなくて。
 私は真っ赤になってしまった顔を上げた。
 ああ、綺麗な三日月。

「シンジ?」

「はいっ」

 ぷっ、失言で緊張してんの。
 
「マナって…」

 今宵は訊かずにはいられない。
 マナが消えた夜だから。

「マナのこと好きだった?」

 その答はわかってる。
 マナ本人から聞いたからね。
 マナが死んでからその気持ちに気がついたってこと。
 でも、私に気を使ってそのことは黙ってるかな?
 シンジはしばらく黙ってた。
 どう答えたらいいのか悩んでるのかなって思ったんだけど、どうやら違ったみたい。
 だって、シンジの返事は物凄く優しげだったんだもん。
 きっとマナとのことを懐かしく思い出していたのね。

「うん、たぶん僕の初恋だったんだと思う。でも、マナが死んじゃってから気がついたんだけどね」

「鈍感」

「え?ドジじゃなくて鈍感なの?」

「そうよ、アンタって超鈍感。きっとそのマナって子もアンタの事が好きだったんだわ」

「そ、そうなのかなぁ」

「当たり前じゃない」

 本人から聞いたんだから間違いないわ。

「ま、私はアンタのセカンドラブってことね。死んじゃった子には敵わないからそれは許してあげる」

「ごめんね」

 いいのよ、シンジ。
 マナと出逢ってなければアンタはただのお隣さんで終わっていたかもしれないもん。
 そのかわり…。

「シンジ、アンタにサードラブはないんだからねっ。3番目なんてつくったらコロスから」

「あ、それは大丈夫だよ。うん」

「それはどうだか?まあ、いいわ。アンタの心は私一色にしてあげるからね、覚悟しなさいよ」

 うう〜ん、私も思い切ったことが言えるもんだ。
 これも顔が見えてないおかげかな?

「一色?僕の心は全部アスカのもの?」

「そうよ…100%私の…」

 言いかけてやめた。
 シンジの心のすべてが欲しい。
 でも…。

「アンタのすべては私のもんよ。いい?誰にも渡しやしないから。
 だけどさ、そのアンタの心の一部に…ほんのちょびっとだけ、他の人のことが入っててもいいわよ」

「へ?どういうこと?」

「もうっ、察しの悪いヤツね。
 つまり、亡くなったご両親やマナって子の事。それにレイの事とか。
 そんな人たちのことを忘れちゃダメってことよ。
 アンタの心の中に住まわせてあげる。でもって、その心ごとぜ〜んぶ私がいただくの」

「えっと…、つまり、どっちにしても僕はアスカのものって事なんだよね」

「と〜ぜんっ」

 私だけしか見ないシンジもいいかもしれない。
 でも、私が好きになったシンジは、死んじゃった幼馴染に初恋したり、腹違いの妹に振り回されたりのちょっと情けないヤツ。
 そんなシンジのすべてをひっくるめて愛してあげるわ。
 もちろん、浮気は一切厳禁だけどね。

「明日は私がお弁当作ってあげるね」

「ドリアンサンドは勘弁してよ」

「ぐっ、残念だけど在庫がないの、ドリアンは。新製品のたこ焼きサンド納豆添えでいいかしら?」

 くそぉ、しっかり覚えてるじゃないの。あの失敗を。

「ええっ、それも勘弁して欲しいなぁ」

「仕方ないわねぇ、じゃポピュラーにから揚げにしとくわ。シンジテイストのね」

「え?僕のって…コピーしたの?」

「と〜ぜん、天才に不可能はないの」

「じゃ、楽しみにしておくよ。あ、そのかわりに朝ごはんは僕が…」

「OK。じゃ、7時30分に来なさいよ。鍵開けておくから」

「わかった。じゃ、6時30分には準備しておくよ」

「何それ?どうして1時間早いのよ」

「だって、アスカはいつでも1時間以上早いじゃないか。呼びに来るの」

 仕方がないじゃない。
 待ちきれないんだもん。
 明日の目覚ましは5時セットね。
 ふふふ、明日からは毎日愛妻弁当なのよ。
 ヒカリたちに見せびらかして…あ、でもシンジのお弁当も食べたいなぁ。
 そうだ、交代でつくるっていうのもいいわよねぇ。

 私は背筋を伸ばした。
 お月様は揺り椅子のような欠けた姿を夜空に浮かべてる。
 
「シンジ…」

「アスカ、大好きだよ」

「へっ?」

 バタバタという足音に続いて扉の音。
 ば〜か。
 逃げ出してしまうほど恥ずかしいんなら無理に言わなくても…。
 って、ことはないわね。
 嬉しいわよ、物凄く。
 ベランダ飛び越えてさっきのお返しを叫んできてもいいけど、
 ここを飛び越えるのは厳禁されてるからいい子の私は思いとどまったわ。
 で、声だけを飛び越えさせることにしたの。

「私だって、大好きよ。シンジ」

 その数秒後に、かちゃりと扉の閉まる音。
 アイツ、私がどんな反応するか待ってたな。
 シンジの癖に生意気よ。

 よし、唐揚げの中に一個だけ激辛のヤツを入れとこっと。
 どんな顔するか楽しみっ。

 ああ、この幸せがいつまでも続きますように。
 私は部屋の中に入る前にもう一度夜空を見上げたわ。
 天国ってのがどこにあるのかわからないけど、きっと空の上よね。

「マナ、約束を破ったら許さないからね。ちゃんと帰ってきなさいよ」

 私の呟きは微かな風に乗って、そしてすっと消えた。



 



Act.57・最終回 マナが消えた夜  ―終―

 

 


<あとがき>

こんにちは、ジュンです。
第57話、最終回です。
ここまでこの長い話にお付き合いいただき本当にありがとうございました。
2度の長い中絶の末に完結はいたしましたが、ターム様や読者様にはご迷惑をおかけいたしました。
この場を借りてお詫びと感謝を申し上げます。

で、この後、エピローグがついてます。
これを書かないと気が済まない性分ですので(笑)。
ただし、他の作品のように長いエピローグではございません。
さくっと読んでやってくださいね。